名のない夜/チレフィ
雪深い夜だった。昼間に降った大雪はずいぶん落ち着いたものの、風は未だ強く、時折窓枠を打ち付けている音が聞こえる。
私は双子の城ではなく、人里に近い小屋で夜を過ごしていた。城には読むべき本も美味い茶もあるが、個人的な時間を過ごす時間と場所が不足している。自分で集めた書物、自分で買い揃えた食器、ささやかだが礼にともらった長期保管に向く食物で囲まれた小屋は、こじんまりとしていても居心地がよい。双子も、よほどの急用でなければこの小屋で過ごす日の私にちょっかいを掛けてくることはなかった。
きっとこれから雪が止む。そうしたら、きっと静かな夜明けになるだろう。雪が音をすっかり吸い込んでしまったような静謐さと、位置の低い太陽が照らす薔薇色の雪面を思い浮かべる。そういう朝は、心が整うようで好ましい。
私は暖炉の前のソファに掛けて、読み途中だった本に手をつけることにした。やや古い植生の本だが、農法に関しての記述が詳細で役に立つ。農民の「勘」のようなものを、旅をしていた学者が聞き取って書きつけたそうだ。この学者はどうやら他の国でも聞き取り調査をしていたようで、本にはナンバリングがされている。私が手に入れたのは北の国の植生が書かれている6巻と7巻だが、どうやら学者は北の国で命を落とし絶筆となったようだった。人間か――もしくは魔法使いかもしれないが、一人でこの量の研究をした胆力に敬意を示しながら、読み進める。これらの知識が農民たちにも広まれば、厳しい寒さの中でも暮らしていけるだけの農業が営めるかもしれない。
暖炉の薪がぱちぱちと爆ぜる音が聞こえるようになり、風が止んだことを知る。読み進めた本を端に起き、茶を淹れることにした。ポットに昼間汲んだ水を入れ、魔法で沸かす。今夜のこの時間のために西の国の市場で買った紅茶の缶を取り出す。
と、匙で茶葉を掬おうとしたところで、一瞬、きらめくような魔力の気配。――チレッタだ。
流星のような勢い。最低限ぶつかっても死なない程度に自分の防護魔法を強めた。次の瞬間に、近くに何かが落ち(おそらくはチレッタだろうが)、およそ人がやってきたとは思えない衝撃で小屋が揺れた。
漏れ出る魔力の様子から、随分気が立っているらしいことがうかがえる。私は余計な逆撫でをしないように発露させた魔力を収め、動向を見誤らないよう、戸に集中を向けた。
ざくりざくりと雪を踏む音。戸の前に人が立つ気配。魔法が来るかと構えたが、その様子がない。不思議に思いながら戸に歩み寄ると、がんがんがん、と手で戸を叩かれた。どうやら魔法で戸を破壊するつもりはないらしい。
私はその意向に従い、戸を解錠し、開けた。そして目を見開く。そこにいたのは魔力の苛烈さに反して、ずいぶんぼろぼろの見目をした大魔女だったからだ。髪は乱れ、いつもばっちりときめている化粧もぐちゃぐちゃ。かすり傷程度ではあるが、見える部位は生傷だらけだ。そしてそのどれもが魔法により手入れがされていない。魔力が切れているわけではなさそうなのに。
「どうしたの、急に」
チレッタが伏せていた顔を私に向ける。目の下が落ちた化粧で黒ずんでいる。彼女はそのような姿を私に見せる女ではない。少なくとも今この瞬間はただならぬ状態なのだろう、と一応の経験から察し、だらんと伸びる手を取った。手に触れた瞬間、その異常な冷たさに驚き、目を見張った。
――こいつ、防寒魔法を切っている。死ぬつもりか?
信じられない、という顔をしているであろう私に向かって、チレッタは口の片端だけで笑いながら、真っ白の唇を動かした。
「ねえ、今夜だけあたしの恋人になってよ」
これもまた普段からすると信じられない物言いだったが、私は答えを考えるより先に、チレッタの手を引っ掴んで小屋に引き入れた。
***
「……魔法はいい」
「馬鹿を言うな。屋内とはいえ濡れたままだと死ぬぞ」
「じゃあ、髪以外は乾かして」
「……意味がわからない」
彼女の言動は全く理解できないが、今に始まったことでもないとも言える。濡れた衣服に体温を奪われてがくがくと震えているさまは、まるで遭難した人間のようだった。重ねて観察するが、魔力がないわけではない。彼女は敢えてこの状態になり、敢えて私の小屋に来て、敢えてこのような注文をしているのだ。
「《ポッシデオ》」
一応彼女の注文に従って、防寒と清浄と、軽い治癒魔法をかけた。髪もあまりに雪に濡れていたため、半分くらいは乾かしてやった。想像するに「濡れていたい」ということだろうから、これくらい残せば気分は得られるだろう。あとはきっと、暖炉の熱でゆっくり乾いていく。衣服もまあ、いつもながらの挑戦的なドレスだったから、ゆるい寝間着に着替えさせて、ブランケットを肩から掛けてやった。
「今、茶を淹れるところだったんだ。座って」
「ミルクがよかった」
「ないよ。俺も今夜だけここにいるつもりだったんだから」
読みかけの本をよけて、ソファにチレッタを案内する。
茶葉を入れたポットに沸いた湯を淹れる。抽出を終え、白と黄のマグカップにたっぷりと飴色の紅茶を注ぐ。鼻腔を擽る香りが非常に豊かで、良い茶葉を買ったと自画自賛する。黄のマグカップに加護の魔法を掛け、シュガーを一片落とした。茶器の奏でる音と私が歩いて床が軋む音がよく聞こえるくらい、ソファで足を抱えたチレッタは静かにしていた。
「どうぞ」
チレッタにマグを渡して私も彼女の左隣に腰掛ける。ソファはひとりで掛けるには余裕があるが、ふたりで掛けると余白がない。自然、私の右肩はチレッタと触れ合うことになる。部屋にはもちろん寝台もあるが、今日はおそらくそちらではないのだろう、と私は解釈した。
ずず、とチレッタが紅茶をすすって、一つため息をついた。鼻は赤いし、唇はまだ血の気が引いている。私の右半身に伝わるのは小さな震えと冷たい体温だ。これもさっさと魔法で解決できたけれど、以下省略。湿った髪はというと、ゆっくりと私のシャツの色を変えていっている。
私も紅茶を一口飲み込む。やはり良い茶葉だ。寒い夜に飲む飲み物というのは、道理を超えて安心を生む。私自身も、先ほどまでの緊張感を溶かすように味わった。
「おまえ、さっきの、明日になったら覚えてないって言いそうだね」
「……うん。だから、今だけ」
触れ合う肩が擦れあった。伏せるまぶたに力がない。いつもなら「都合がいいなあ」と嫌味を言うところだったのを、飲み込む。恋人はきっと、そう言わないだろうから。
チレッタはマグを両手で包んで、ちびちびと静かに茶を飲んでいた。どうにも彼女にはこういう気がある。かしましい振る舞いをしたかと思えば、急に他者との細かな機微のやり取りを好んだり。もちろんこれを面倒と思うことの方が多かったが、心を透かしあいながら、ダンスでも踊るように次の一手を考えながら付き合いをやるのは、面白かった。
少しずつ、暖炉と紅茶と私とから受け取った熱で彼女の体が温まっていくのを、触れたところから感じる。血色がよくなっていく肌にも安堵する。確かに、この過程に意味を見出すというのもわからないではない。彼女の心のうちはどうなのだろうか。瞳から読めるものは少ないけれど、じいっと暖炉で揺れる炎を見つめる様子には、傷と、私とよく似た安堵があるように感じられた。
彼女が落ち着いてきたのを見て、私はマグをサイドテーブルに置き、読みかけの本を改めて手にした。
部屋に、ページを捲る音と、薪のはぜる音、そして私たちの小さな呼吸の音だけが響く。静かな夜だ。肩から伝わる体温に意図がないことが、わずかにくすぐったく、心地よい。たまにチレッタを見やると、眠そうながらもずっと暖炉を眺めていたから、私も本を読み続けた。
かすかに残る涙の跡にも、喧嘩したような生傷にも、冷えきった手にも、千々になった心にも触れずに、なにが恋人か。そうは思うけれど、私たちは恋人ではないので。ただ、一度だけ、すっかり乾いてくせの増した黄金色の髪を、手ぐしで梳かしてやった。ほうぼうが絡まっていたけれど、彼女のご自慢の髪は触れればきちんとほどけてくれた。その間、犬か猫のように目をつむって気持ちよさそうにしていたのだけはかわいらしいなと思うのを、自分に許した。
***
夜明け。うつらうつらとしていたら、体になにかが覆いかぶさる感覚で目が覚めた。ブランケットだ。
身動ぎして背後に視線をやると、チレッタが小屋から出ていくところだった。何も言わずに出ていくのであれば、私が声を掛けることもあるまい。もう一度目をつむる。戸が開いて、静かに閉まる音がする。昨夜のように、朝鳥のごとく飛び立つ魔力の気配がする。
私は、わずかに明るいまぶたの裏に、朝陽で薔薇色に染まった雪原を飛ぶ魔女を思い浮かべる。今日は明朝に城に戻る予定だったが、少しだけ遅らせよう。今日ばかりは、まだ見ぬ美しい雪原は、あの高貴な魔女ひとりのものでよいだろうから。