名のない夜→馬鹿げた夜/チレフィ
ついぞ、俺とチレッタはあの夜のことを話題にすることのないままだった。どういう意図だったのかも、何があったのかも訊かずに終わったし、まあ、俺は肯定の返事すらきちんとはしていないわけだし。……というのを、未だ覚えているのが癪ではあるけれど。
***
「賢者様はちょっと人肌恋しい夜ってない? 俺はあるんだよねえ、……例えば今夜とか」
明日の午前中の予定がお互いに空いていたから、夜は俺の部屋で「お仕事」と相成った。晶は俺の冗談にもずいぶん慣れてしまい、ひらりと躱しながら会話を続ける。
「ないことは……きっとないですけど、ミスラとのソフレイベントが定期的に発生するので……。そういう意味では発散できてるのかも?」
「『そふれ』?」
「あ、前いた世界にあった、『添い寝フレンド』の略です。いまいち理解できてない概念なんですけど、恋人じゃないけど添い寝だけする関係……という」
「恋人じゃなくて、添い寝だけ? ずいぶんとプラトニックな……」
晶は少し眉を動かして言葉を探している。
「うーん。言葉にするのは難しいんですけど、もっと大人な関係も知った上で行き着いた先……みたいなニュアンスも、あるにはあります」
粗野な話題に消極的な晶がその匂いをちらと見せるのに珍しいと思いながらも、俺の頭には、大昔にチレッタと過ごした静かな夜が浮かんでいた。そうか、あれはそういうものか。「恋人」という単語を当時は気にしていたが、むしろあれこそ「恋人」ではなかった、というのが正しいのか。あのときの俺たちがこの言葉を知っていたら、あの瞬間の言い訳に使っていたのだろうか。
「フィガロ、どうしたんですか?」
晶が黙り込んだ俺の顔を怪訝そうに覗き込む。自分の口の端に触れると、僅かに口角が上がっていたようで、さらにひとりで面白くなってしまった。
「……いや、なんかそれ、わかるなあと思って。足りないさみしい部分だけを補い合うのって、都合がいいもんね」
「そう言われると、確かに。困ってるミスラに悪い表現をしちゃいましたね」
「賢者様は律儀だなあ」
「ね、でもミスラばっかりずるいよ。俺も賢者様と添い寝フレンドしたいかも」
「かも、で誘わないでください。本当にしたいのなら、パジャマパーティーでも、添い寝でも、なんでもしますよ」
返しがうまくなったなあ、と思う。そういう意味では、この子との「お仕事」は、すでに十分俺にとっての「添い寝」になっているであろう。俺が、くすぐりあう言葉の中に潜んだ真剣な熱を心地よく感じることを、彼は知ってくれている。
「でもまあ、きみはみんなの賢者様だからね。俺ばっかりが独り占めしたら今度は俺が嫉妬されちゃう。俺は、たまに愚痴が溜まったときに駆け込みたくなるポジションを堅実に守っていこうと思ってるよ」
俺の、宣誓の形をした牽制に、晶が苦笑いした。彼の手が空のティーカップに一度触れて、離れたのを視界の端で確認する。
「今日はそろそろおひらきにしようか。眠くなってきたよね」
晶がそうですね、とゆるく微笑む。この会は、お互いの「おひらきにしよう」という言葉を尊重することが多かった。空になったカップとポットを宙に浮かせて、ぱっと消す。おしまいの合図は、わかりやすい方がいい。
椅子を引く晶より先に立ち上がって、ドアまで先導する。静まった魔法舎の廊下に、きい、とドアの開く音がする、そのちょっとした背徳感を噛みしめる。
「それじゃあ、おやすみなさい、フィガロ」
この子は毎度、挨拶をするときは俺としっかり視線を合わせる。実に健気だ。そんなことをするから、目を合わせないときというのが浮き彫りになるというのに。
「おやすみ、賢者様」
微笑みながら小さく手を振る。ぺこりと頭を下げて背を向けた晶の足音が階段を登るものに変わってから、静かに戸を閉めた。
空の二脚の椅子が佇む部屋で、俺は再びポットと揃いのティーカップをふたつ取り出していた。晶との茶会には覚醒作用のないハーブティーを選んだが、そうだな、あの日に飲んだのは紅茶だったかな。さすがにどんな味わいのものだったかは記憶していないが、まあ、診療所から持ってきたものでよいだろう。
妙な気分ではあるが、流石にもう2杯も紅茶を飲む気はなく、自分のティーカップだけに飴色を注いだ。ふわりと広がる、慣れ親しんだ香り。おそらく彼女にとってもそうだったものだ。椅子に掛けてカップをつまむと、眠りに向けていささか冷えていた手にじんわりと熱が伝わる。
窓の外に鎮座する月を眺めて、茶を口に運ぶ。それから、空の椅子とティーカップに視線を移して、さすがに吹き出した。1500年よりもっと前の幼い夜を思い出して感傷に浸るなんて、馬鹿らしいったらありゃしない。あまりに馬鹿馬鹿しいから、俺もおまえのように墓まで持っていくしかなくなってしまった。
……もしくは、これを「悼む」と呼ぶのかもしれない。それならば、この空席にも意味はあるのかもしれない、とも。
俺は一度瞑目し、この茶のせいで浅くなるであろう今日の眠りを彼女に捧げようと決めた。今の俺がやれる馬鹿げた夜なんてのは、こんな程度だ。つまらないと鼻で笑われそうだが、晩年のおまえもずいぶんつまらなかったから、おあいこだ。……ねえ? チレッタ。
古い友人にするみたいに、笑ってみせた。